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(4) この国には預言者の証拠がなければならない

韓国民族に下された明白な預言者の証拠として、第一に、この民族は啓示によって、メシヤ思想をもっているという事実である。第一イスラエル選民は、預言者たちの証言によって(マラキ四・2〜5、イザヤ六〇・1〜22)、将来メシヤが王として来て王国を立て、自分たちを救ってくれるであろうと信じていたし、第二イスラエル選民たちもメシヤの再臨を待ち望みながら、険しい信仰の道を歩んできたのと同じく、第三イスラエル選民たる韓国民族も李朝五〇〇年以来、この地に義の王が現れて千年王国を建設し、世界万邦の朝貢を受けるようになるという預言を信じる中で、そのときを待ち望みつつ苦難の歴史路程を歩んできたのであるが、これがすなわち、鄭鑑録信仰による韓国民族のメシヤ思想である。韓国に新しい王が現れるという預言であるので、執権者たちはこの思想を抑圧し、特に日本帝国時代の執権者たちは、この思想を抹殺しようとして、書籍を焼却するなどの弾圧を加えた。また、キリスト教が入ってきたのち、この思想は迷信として追いやられてきた。しかし、韓国民族の心霊の中に深く刻まれたこのメシヤ思想は、今日に至るまで連綿と受け継がれてきたのである。以上のことを知ってみれば、韓国民族が苦悶しつつ待ち望んできた義の王、正道令(神の正しいみ言をもってこられる方という意味)は、すなわち韓国に再臨されるイエスに対する韓国式の名称であった。神はいまだ韓国内にキリスト教が入ってくる前に、将来メシヤが韓国に再臨されることを「鄭鑑録」で教えてくださったのである。そして、今日に至ってこの本の多くの預言が聖書の預言と一致するという事実を、数多くの学者たちが確認するに至っている。
第二に、この民族が信じている各宗教の開祖が、すべてこの国に再臨するという啓示をその信徒たちが受けているという事実である。既に、前編第三章において詳述したように、文化圏発展史から見ても、あらゆる宗教は一つのキリスト教に統一されていくという事実からして、終末におけるキリスト教は今まで数多くの宗教の目的を完成させる最終的な宗教でなければならない。したがって、キリスト教の中心として再臨されるイエスは、そのすべての宗教の開祖たちが地上で成就しようとした宗教の目的を一括して完成されるのであるから、この再臨主は使命の立場から見て、あらゆる開祖たちの再臨者ともなるのである(前編第五章第二節(四))。したがって、多くの宗教において、啓示によって韓国に再臨すると信じられているそれらの開祖は、別の人物ではなく、実は、将来来られる再臨主ただ一人を指しているのである。すなわち、将来イエスが再臨されることを、仏教では弥勒仏が、儒教では真人が、天道教では崔水雲が、そして、「鄭鑑録」では正道令が顕現すると、教団ごとに各々、異なった啓示を受けてきたのである。
第三に、イエスの韓国再臨に関する霊通人たちの神霊の働きが雨後の竹の子のように起こっているという事実である。使徒行伝二章17節に、終末においては神の霊をすべての人に注ぐと約束されたみ言があるが、このみ言どおりの現象が韓国民族の中で起きているのである。それゆえに、数多くの修道者たちが雑霊界から楽園級霊界に至るまでの様々の層の霊人たちと接触するなかで、それぞれ、主の韓国再臨に関する明確な啓示を受けているのである。しかし、霊的な無知によって、いまだにこのような事実に少しも耳を傾けようとせず、深い眠りに陥っている人々がいる。それがすなわち、現キリスト教界の指導者たちなのである。これは、あたかも、イエス当時において、東方の博士や羊飼いたちは、啓示によって、メシヤ降臨に関する消息を聞き知っていたにもかかわらず、むしろだれよりも先にこのことを知らなければならなかった祭司長たちや、律法学者たちが、霊的な無知によって、このことを全く知らなかったのと軌を一にするといわなければなるまい。
イエスが「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」(マタイ一一・25)と言われたのは、当時のユダヤ教界の指導者層の霊的な無知を嘆かれたと同時に、無知ではありながらも、幼な子のごとく純真な信徒たちに天のことを教示してくださった恩恵に対する感謝のみ言であった。そのときと同時性の時代に当たる今日の韓国教界においても、それと同じ事実が、より高次的なものとして反復されているのである。神は、幼な子のような平信徒たちを通じて、終末に関する天の摂理の新しい事実を、多く啓示によって知らせておられるのである。しかし、彼らがその内容を発表すれば、教職者たちによって異端と見なされ追放されるのでそのことに関しては、一切発表をせずに秘密にしているのが、今日の韓国キリスト教界の実情である。あたかもかつての祭司長や律法学者たちがそうであったように、今日の多くのキリスト教指導者たちは、聖書の文字を解く知識のみを誇り、多くの信者たちから仰がれることを好み、その職権の行使に満足するだけで、終末に対する神の摂理に関しては、全く知らないままでいるのである。このような痛ましい事実がまたとあろうか。