worldpeacehopeのブログ

sekai ga douka heiwa de arimasuyouni!

(二) 人間の堕落

創造原理で詳述したように、人間は成長期間において、未完成の立場にあるとき堕落したのであった。人間に、なぜ成長期間が必要であったか、また、人間始祖が未完成期に堕落したと考えざるを得ない根拠はどこにあるのか、という問題なども、既に創造原理において明らかにされている。人間は堕落することによって神の宮となることができず、サタンが住む家となり、サタンと一体化したために、神性を帯びることができず堕落性を帯び…

第一節 神の創造目的完成と人間の堕落

(一) 神の創造目的の完成 既に創造原理において詳細に論述したように、神が人間を創造された目的は人間を見て喜ばれるためであった。したがって、人間が存在する目的はあくまでも神を喜ばせるところにある。では、人間がどのようにすれば神を喜ばすことができ、その創造本然の存在価値を完全に現すことができるのであろうか。人間以外の被造物は自然そのままで神の喜びの対象となるように創造された。しかし人間は創造原理に…

終末論

第三章 人類歴史の終末論 我々は、人類歴史がいかにして始まり、また、これがどこへ向かって流れているかということを、これまで知らずに生きてきた。したがって人類歴史の終末に関する問題を知らずにいるのである。多くのキリスト教信者たちは、ただ聖書に記録されていることを文字どおりに受けとって、歴史の終末においては天と地がみな火に焼かれて消滅し(ペテロⅡ三・12)、日と月が光を失い、星が天から落ち(マタイ二…

(三) 人間を万物の主管位に立たせるために

神は人間を創造されてのち、万物を主管せよと言われた(創一・28)。人間が神のみ言のとおりに万物を主管しようとすれば、万物と同等な立場においてはそれをなすことはできない。ゆえに、人間はそれを主管し得るある資格をもたなければならないのである。 神が創造主であられるがゆえに、人間を主管し得る資格をもっておられるように、人間も万物を主管することのできる資格をもつためには、神の創造性をもたなければならない…

(二) 神のみ創造主であらせられるために

神は自ら創造された原理的な存在とその行動のみを干渉されるために、犯罪行為や地獄のような、御自分が創造されなかった非原理的な存在や行動には干渉し給わないのである。神がもしある存在や行動に対して干渉し給うならば、干渉を受けるその存在や行動は、既に、創造の価値が賦与され、原理的なものとして認定されたもののような結果をもたらすのである。 このような論理に立脚してみるとき、もし神が、人間始祖の堕落行為に対…

(一) 創造原理の絶対性と完全無欠性のために

創造原理によれば、神は人間が神の創造性に似ることによって、あたかも神御自身が人間を主管されるように人間は万物世界を主管するように創造されたのである。そこで、人間が神の創造性に似るためには、人間自身がその責任分担を遂行しながら成長し、完成しなければならない。このような成長期間を、我々は間接主管圏、あるいは、原理結果主管圏というのである。それゆえに、人間がこの圏内にいるときには、彼ら自身の責任分担を…

第六節 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由

神は全知全能であられるので人間始祖の堕落行為を知られなかったはずがない。また彼らが堕落行為を行わないように、それを防ぐ能力がなかったわけでもない。それでは、神はなぜ、彼らの堕落行為を知っておられながら、それを干渉し防ぎ給わなかったのであろうか。これは、今日まで人類歴史を通じて、解くことのできなかった重大な問題の中の一つである。我々は、神が人間の堕落行為を干渉なさらなかった理由として、次の三つの条…

(三) 自由と堕落と復帰

天使は、人間に仕えるために創造された。したがって、人間が天使に対するのは、どこまでも人間の自由に属する問題なのである。しかし、天使から誘惑された当時のエバは、いまだ知的、あるいは心情的に、未完成期にいた。したがって、エバが天使の誘惑により、知的に迷わされ、心情的に混沌となって誘惑されたとき、彼女は責任と実績を追求する本心の自由によって生ずる不安を覚えたのであるが、より大きい天使との愛の力によって…

(二) 自由と人間の堕落

前項で詳述したように、自由は原理を離れてはあり得ない。したがって、自由は自らの創造原理的な責任を負うようになるし、また、神を喜ばせ得るような実績を追求するために、自由意志による自由行動は、善の結果のみをもたらすようになる。それゆえに人間は決して自由によって堕落することはできないのである。コリントⅡ 三章17節に「主の霊のあるところには、自由がある」と言われた。我々は、このような自由を、本心の自由…

第五節 自由と堕落

(一) 自由の原理的意義 自由に対する原理的な性格を論ずるとき、第一に、我々は、原理を離れた自由はない、という事実を知らなければならない。そして、自由とは、自由意志とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉なのである。前者と後者とは、性相と形状との関係にあり、これが一体となって初めて完全な自由が成立する。それゆえに、自由意志のない自由行動なるものはあり得ず、自由行動の伴わない自由意志というもの…

(六) 堕 落 性 本 性

天使が神に反逆して、エバと血縁関係を結んだとき、偶発的に生じたすべての性稟を、エバはそのまま継承したのであり、こうして天使長の立場におかれるようになったエバと、再び血縁関係を結んだアダムも、またこの性稟を受け継ぐようになった。そして、この性稟が、堕落人間のすべての堕落性を誘発する根本的な性稟となってしまったのである。これを堕落性本性という。 このような堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、…

(五) 罪  

罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう。その罪を分類してみれば、第一に原罪というものがあるが、これは人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪をいい、この原罪は、すべての罪の根となるのである。 第二に、遺伝的罪がある。これは、父母の犯した罪が数代にまで及ぶという十戒のみ言のように、血統的な因縁をもって、…

(四) 善神の業と悪神の業

善神というのは、神と、神の側にいる善霊人たちと、天使たちを総称する言葉であり、悪神というのは、サタンと、サタンの側にいる悪霊人たちを総称する言葉である。善と悪とがそうであるように、善神の業と悪神の業も、同一のかたちをもって出発し、ただその目的のみを異にするものなのである。 善神の業は、時間がたつにつれてその個体の平和感と正義感を増進せしめ、その肉身の健康をも向上させる。しかし、悪神の業は、時間が…

(三) 目的性から見た善と悪

善と悪に対する定義は、既に、創造原理の中の「創造本然の価値」において論じ尽くした。今、ここにおいて、我々は、その目的性から見た善悪の意味を調べてみることにしよう。アダムとエバが、彼らに賦与された愛をもって、神を中心として四位基台を造成したなら、彼らは善の世界をつくることができたはずである。しかし、彼らはこの目的に反する愛をもって、サタンを中心とする四位基台を造成したので、悪の世界をつくってしまっ…

(二) 人間世界に対する サタンの活動

サタンは、ヨブを神の前に訴えるように(ヨブ一・9)、絶えずあらゆる人間を神の前に訴え、地獄に引いていこうとしているのである。しかし、サタンもその対象を取り立てて、相対基準を造成し、授受作用をしない限り、サタン的な活動をすることはできない。サタンの対象は、霊界にいる悪霊人たちである。そして、この悪霊人たちの対象は、地上にいる悪人たちの霊人体であり、地上にいる悪人たちの霊人体の活動対象は彼らの肉身で…

(一) サタンと堕落人間

 堕落した天使長ルーシェルを、サタンと呼ぶということについては既に述べた。ルーシェルと人間始祖が血縁関係を結び、一体となったので、サタンを中心とする四位基台がつくられると同時に、人間はサタンの子女となってしまったのである。ヨハネ福音書八章44節を見ると、イエスは、ユダヤ人たちを「悪魔から出てきた者」と言い、またマタイ福音書一二章34節、同じくマタイ福音書二三章33節においては、彼らを「へびよ、ま…

第四節 人間堕落の結果

アダムとエバが、霊肉共に堕落することによって、人間と天使をはじめ、被造世界にいかなる結果を招来したのであろうか。我々はここで、この重要な問題を取り扱ってみることにしよう。

(三) 信仰のための戒めが必要な期間

それでは、神が人間始祖に、「食うべからず」と言われた信仰のための戒めは、いつまでも必要であったのだろうか。愛を中心として見るとき、神の第二祝福完成は、アダムとエバが、神の愛を中心として夫婦となり、その子女が生み殖えることによって(創一・28)、神の愛による直接的な主管を受けることをいうのである。それゆえに、人間が完成すれば、「食う」のは原理的なものとして、当然許されるように創造されていたのであっ…

(二) 信仰のための戒めを下さった目的

神が、アダムとエバに「食うべからず」という信仰のための戒めを下さった目的は、どこにあったのだろうか。それは、愛の力が原理の力よりも強いため、まだ未完成期において神の直接的な愛の主管を受けることができずにいたアダムとエバが、もし天使長の相対的立場に立つようになれば、目的を異にする、その非原理的な愛の力によって堕落する可能性があったからである。天使長の非原理的な愛の力がいかに強くとも、アダムとエバが…

第三節 愛の力と原理の力および信仰のための戒め

(一) 愛の力と原理の力から見た堕落 人間は原理をもって創造され、原理軌道によって生存するように創造された。それゆえに、原理の力それ自体が、人間を原理軌道より脱線させ、堕落せしめることはあり得ないのである。これはあたかも、レールや機関車に故障がない限り、汽車が自ら軌道を脱線するということがあり得ないのと同様である。しかし、汽車も自らの走る力よりも強い、ある外力が、それと異なる方向から働いてきた場…